私は推し活が趣味だ。しかし、その推しを好きなことは隠してしまうことが多い。
正確にいうと、推しを共有できる人がかなり限られるのだ。
同じ推しが好きでも、推しについて語り合える人と、そうでない人がいる。
これがもう少し幼い時ならわかる。オタクや推し活に関して否定的な見方が多かった。
しかし、オタクや推し活が浸透した今でも隠したくなるのはなぜだろうか。
私は推し活する時は高確率で誰か1人、というよりグループ全体、つまり箱推しするタイプだ。
その人個人を見るというよりもグループ内でのやりとりや関係性を見ることが好きである。
そんな私が苦手な質問がある。「誰が好き?」と聞かれた時だ。
この答え方が難しいのだ。
その人を推している人からすると、私の熱量は浅く感じるかもしれない。この温度差が苦手だ。
そして、何より本当に大切なものだからこそ、誰かに傷つけられることなく、自分の中で大切に楽しんでいたい、と感じる。
これは過去の経験が関係している。
同じ推しが好きでも熱量が違うと冷めてしまう。
そして、会話の中で「へぇ…。」と単調に、興味なさそうに相槌を打たれただけで、傷ついてしまうことがあったからだ。
それなら共有するより、自分で楽しみたいと考えるようになった。
熱量が同じなら、同じものを見て「わかる!」と言える。
たとえ自分と違う意見でも、「そういうのもあるよね。」と楽しめる。
その差が大きいと、その違いにこちらの熱が冷めてしまう。
楽しいという感情すら失ってしまう感覚が怖いのかもしれない。
私の推し活にとって、この温度感を保つことは、自分の中の「楽しい」を大切にし続けることなのだ。
だからこそ、この価値観を蔑ろにされるような経験を避けるために、隠しているのかもしれない。
でも、私はそれで良いと思う。
推し活は昔から変わらず続いている唯一の趣味だ。私を形成してきた大切なものだ。
もしかしたら私は推しを隠しているのではなく、推しを好きな自分を守っているのかもしれない。

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